ミニマリズム日和り

人と繋がりたい。双極性障害、パニック障害者がミニマリズムに出会い生きやすくなり、新しい日々を正直に生きるブログ。

自己紹介①幼少期編

このブログは、自分に正直に嘘をつかず生きていく為に書いています。

文章能力が物凄く低いですし、下手くそなのは否めないのですが、僕に興味を持ってくれた人に『Fu_J(ふーじぇい)はこんな人間だよ』ってことをお伝えしたいので記していきます。

コミュニケーション障害者ですが、人と繋がりたい思いが強いです。

•Fu_J(ふーじぇい)

•生年月日1986/2/19

•独身

アトピー性皮膚炎

•花粉症

双極性障害

パニック障害

•コミュニケーション障害

•自己否定感が強く自信が持てない

なんだか、箇条書きしてるだけで魅力のなさが滲み出ていますね。昔は、自分を改善しようと試みた時期もあったのですが、余計な事を考えすぎてしまい結局元どおり(と言うよりは新たな病を患って身体的にはマイナス)になってしまいました。

僕の事に興味を持ってくれた方に幼少期から現在に至るまで僕の恥の多い人生をつらつらと晒していきます。

僕は専業主婦の母親と寡黙な料理人の父親の長男として1986/2/19に産声をあげました。

母曰く、僕は陣痛開始から3日間もの間お腹から出て来なかったらしいです。

この世に生まれても自分をうまく表現する事が出来ないからずっと母親の胎内で過ごしていたい。そんな感じでこの世に出てくるのを躊躇ったのかもしれません。

幼少時から母親には、

「Fu_J(ふーじぇい)を産むときは本当に辛い思いをした。3日間も陣痛に耐えて生死をさまよって、ようやく産まれて来た大切なコなんだよ。」

と言われ続けていました。

その度に僕は、

「あぁ、僕を産んでくれてありがとう」

と言うしかなかったのです。

内心は、

「なんで僕をこの世に放ってしまったんだ。人が怖くて怖くて仕方ない。ずっとこんな恐怖と闘いながら生きていかなければならないのか。」

と言う思いが強かったです。しかし、僕はその気持ちに蓋をして母親に本当の気持ちを言う事はありませんでした。

なぜなら母は僕にたくさんの愛情を注いでくれていたからです。ありがとう。

改めて半生を振り返ってみると最初に記憶として覚えている事は、幼稚園に入園してからの出来事。

僕は、当時からマザコンで母親がいないだけでとても不安になりました。当時住んでいたアパートから自転車で五分くらいのところに幼稚園はありました。そこまで、毎日のように母は僕を送ってくれていました。とにかく泣き虫で、幼稚園に送ってもらう度に門の前で泣き喚く日々を過ごしたのを今でも鮮明に覚えています。

母と離れたくなかった。ただそれだけの理由で泣き喚いていたのかと言われるとそうでもない気もします。幼稚園には知らない児童がたくさんいて、そのコ達とコミュニケーションを取らないといけない。このハードルがとても高かったように思えるのです。当時の記憶を辿ってみても幼稚園での思い出は3つくらいしかありません。

ひとつは、大柄で優しい先生(通称ブーコ先生)とずーっと一緒に過ごしていた事。

とても失礼な通称ですが、彼女に僕は温もりを感じていました。とても優しく、僕にとって彼女は幼稚園で母親のような存在でした。今でも記憶の片隅にブーコ先生は居てくれます。

ふたつ目は、僕の右目から血がドバドバと出た話です。あれはお遊戯会での出来事。お遊戯の内容は全く覚えていませんが、とある先生の不注意で長机を運ぶ際に机の門が僕の目の上を切り裂いてしまいました。血がドバドバと出て傷が残りました。なので未だに僕の右目には傷跡が残っています。これを隠すために前髪を伸ばしていた時期もありましたが、今となっては何も思いません。

みっつめは、妹が嫌がる行為をした同級生を突き飛ばしたコトです。僕には、ふたつ離れた妹がいるのですが、彼女が幼稚園に入って間もない頃の話。相わからず幼稚園に行くのは嫌で嫌で仕方がありませんでしたが、妹が幼稚園に入るということで、長男意識が少しは働いたのでしょうか。泣かずに幼稚園に行くようになっていました。そして、ある日の出来事。僕の同級生が妹を泣かせました。内容はあまり覚えていませんが、妹が泣いた事実を僕は受け入れて同級生を突き飛ばしたのです。それが良い事なのか悪い事なのかはわかりませんが、僕がはじめて家族以外の人を傷付けました。

これが幼稚園での記憶です。内向的で泣き虫で意気地なしな自分の根本はここからはじまりました。

長くなってしまいましたので、小学生から大学時代にかけてはまた次の機会に書いていこうと思います。

真面目系クズで中身が空っぽな自分を創り出したのは小学生のころの影響が大きそうです。